母校の広報誌に記事掲載: 第5回(最終回) アフガン赴任を振り返って

帰国後のいま

今年6月末、約1年半の赴任期間を終えて帰国した。

帰国してすぐに、新しい部署での仕事が始まった。日々の仕事に忙殺される中、時々ふっと心がカブールに飛んだ。

今みんな、どうしてるだろう?

アフガニスタン大統領選挙

820日が近付くにつれ、心がカブールに飛ぶ回数が増えた。この日はアフガニスタン大統領選挙。国の行く末を誰の手に託すのか。それ以前に、タリバンの妨害が懸念される中、無事選挙を終えることができるのか。国際社会の関心が高まっていた。

選挙に向けて治安の悪化が懸念される中、JICAは専門家の新規派遣を見合わせるとともに、国内で活動する専門家の数を制限。選挙1週間前からは、JICA関係者の自宅待機が行われた。しかしこの自宅待機開始の1日前、カブール市内のISAF(国際治安部隊)の基地前で自爆テロが発生。イタリア軍兵士6人と民間人10人が死亡、50人以上が負傷した。テロ現場は、JICA事務所関係者の通勤経路である。インターネットで事件の写真を見ると、黒コゲになった車両の後ろに見慣れた風景が映っていた。「日本人が負傷したって報道されてないから、みんな大丈夫だろうな・・・」そんなことを考えながら、選挙の行方を思って暗澹たる気分になった。

こうしてアフガニスタン全土でテロ事件が頻発する中、大統領選挙は行われた。選挙は、事実上現職のカルザイ大統領と、対抗馬であるアブドゥル・アブドゥル元外相の一騎打ち。選挙結果の大勢は早ければ翌週にも判明すると報道されていたが、開票は進めど、どちらも当選に必要な過半数に届かない。ようやく、暫定結果で現職のカルザイ氏が1位の546%を獲得したが、大規模な不正が判明。国連主導で票の数え直しが行なわれたところ、投票全体の5分の1にあたる100万票が無効になり、4967%で過半数割れに。そこで117日に決選投票が行われることになった。

しかし決選投票に向けてカブール市内の治安は悪化。決選投票の10日前、国連の選挙スタッフが住んでいた国連の宿泊施設がタリバンにより襲撃された。1時間以上にわたる銃撃戦のあと制圧されたものの、国連の外国人職員が6人死亡。国連スタッフがこのような形で真正面から攻撃されたのは初めてだったので、個人的にもかなり衝撃を受けた。事件はNHKでも報道されたので、聞いた直後、驚いてカブールの同僚に電話した。襲撃された宿泊施設は、JICAの同僚が住んでいる通称「レジデンス」のすぐ近く。銃撃戦のあと、レジデンスの外壁には銃弾の跡が3発残っていたらしい。

この事件の5日後の112日、決選投票が行われることなく選挙は終結した。アブドゥル元外相が「選挙は公正なものではない」と決選投票への不参加を表明したため、選挙管理委員会が決選投票を取りやめ、カルザイ大統領の再選を宣言したからである。あっけない収束と、正当性に疑問符がつく今回の選挙結果に、アフガンの未来を思い暗い気分になった。

日本のアフガン支援戦略とJICA

日本の総選挙は、アフガンの大統領選挙日より後に行われたが、結果は先に出た。インド洋沖での給油活動中止を掲げる民主党政権が、どのようなアフガン政策がどうなるか注目していたが、最終的に5年間で50億ドル(約4500億円)の拠出を表明。その中身は(1)治安改善のための警察機能強化、(2)元兵士を社会に再統合するための職業訓練、(3)農業・農村開発、といった民生支援である。民生支援の一部を担うJICAの事業も、今後、アフガニスタンそして隣国パキスタン支援が占める割合が大きく増えることになる。JICAはすでに、人口が過密化している首都カブールを拡大する「首都圏開発構想」などを基軸にアフガニスタンでの支援を展開していくことを打ち出している。一方で、制約も多い。治安改善の見込みが低い中、多くの援助関係者を送り込むのはリスクを伴うからだ。関係者の安全と事業規模のバランスに配慮しながら、支援を続けていくことになるだろう。

アフガンで学んだこと

「アフガニスタン、どうだった?」

帰国後、同僚や友人からそう聞かれる度に、一瞬考え込んでしまう。この問いに短い時間で答えられるほど、赴任中に経験したことはシンプルではないし、自分の表現力のなさに歯がゆさを感じてしまう。

質問の裏には大抵、「危険なアフガニスタンで、さぞかし大変だったでしょう」というメッセージが込められている。そこで私もついつい「自分が通り過ぎた道の10数分後に自爆テロがあってねえ・・・初めてキノコ雲をみたよ」とか、「行動規制が厳しくて、カブールでは外食も買い物も一度も行けなかった」とか、「治安の関係で、農村になかなか行けなかったのがつらかったなあ」と言ってしまう。

しかし言った瞬間に、「それだけじゃないんだけどな」という思いがよぎる。確かに制約は多かったけれど、それだけに見たこと、経験したことの一つ一つが心に焼き付いている。一緒に働いたアフガン人のスタッフと出張先で語りあったこと。訪れた農村で、村人がJICAの支援に心から感謝してくれたこと。バーミヤンで見た美しい大自然と、子供たちの純真無垢な笑顔・・・そして苦楽を共にした同僚との数々のエピソード。

私にとってアフガニスタンは「危険で怖い国」という以前に、「困難な環境の中でも、毎日を真剣に生きている人がいる国」なのだ。

駆け出しの開発援助機関職員として、私は本当に多くのことをアフガニスタンから学んだ。これまでの連載で紹介してきたように、担当分野である農村開発、職業訓練、ジェンダーを通じてこの国の復興支援におけるさまざまな課題を知った。しかし仕事を通じて何よりも感じたのは、「ひとつの国が発展し、機能するということの奇跡」である。日本にいると当たり前すぎて気付かないことが、アフガニスタンのような途上国で暮らすと、いかに大切かを痛感するのだ。

もちろん日本だって多くの社会問題が存在している。しかしその多くは、国が発展することによって生まれた高度かつ複雑な問題であると思う。一方アフガニスタンのような途上国における問題は、非常にシンプルであるとともに人の生死に直結している。日本人が当たり前のように享受している治安。水・電気・道路などのインフラ。医療、教育。そして女性の権利。これらが不十分であるために、命を落としたり、日々身の危険を感じたり、将来への希望が閉ざされている人々がアフガニスタンには大勢いる。これらの基本的な「社会の仕組み」があることが、いかにありがたいことか。そしてその仕組みが機能するまでにいかに多くの努力と時間が必要か。日本とアフガニスタンの間にあるあまりの大きなギャップに、何度も気が遠くなる思いをした。

大学生への期待

私は大学時代、総合政策学部で学んだ。「政策課題を解決するのに、一つの学問だけでは対処することができない。複眼的にとらえる必要がある」・・・この言葉の意味と深さを、アフガニスタン赴任中ほど実感したことはない。この国の復興、開発にはあまりに多くの要素が関わっており、ひとつだけでは到底目的を達成することはできない。たとえばアフガニスタンの開発を促進するには治安の改善が不可欠だ。しかし治安を改善するためには、生活難から反政府勢力に加わらないようにするために、人々の生計向上が不可欠である。生計を向上させるには、国民の80%が従事する農業を再建する必要がある。農業の再建には、農村インフラの復旧が必須だし、そのためには多額の資金が必要。歳入を増やすこともさることながら、多額の資金を公平に分配するには政府のガバナンスが不可欠である。そして政府のガバナンスを機能させるためには、政府職員が高い教育水準と使命感をもたねばならない・・・ 等等、開発には多くの課題が網目のようにつながっており、複眼的、全体的な視野が欠かせないのだ。同時に、それぞれの分野における専門的な知見を必要としているのである。

総合政策学部からは国際協力分野で活躍する先輩や同期、後輩が出てきており、心強く思っている。願わくば、当大学の卒業生からもっとこの分野に関わる人が出てきてほしい。民間企業での経験を活かしてこの分野で活躍している人も沢山いる。そして、学生時代にはぜひ途上国を旅してほしい。日本で当たり前のことが、他国ではそうでないことに気づくことで、問題意識をもつきっかけになるのだと思う。そして一度持った問題意識は、その後の勉強や仕事、ひいては生きることそのものへの原動力になると信じている。

最後に、1年半の赴任を支えてくれた同僚、友人に感謝したい。特にアフガニスタンに行くと言った私に反対もせず、理解してくれた両親には感謝している。そしてアフガニスタンでの経験をまとめる機会を下さった編集部に、改めて御礼申し上げたい。

(おわり)

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母校の広報誌に記事掲載: 第4回 アフガニスタンにおけるJICAの職業訓練支援

カブール職業訓練センター 修了式
その講堂に足を踏み入れた瞬間、ざわめきと熱気に包まれた。
ここはアフガニスタンの「労働社会福祉・殉教者・障害者省」という長い名前の省庁の中。今日は、JICAが支援を行ったカブールの職業訓練センターの修了式だ。刺繍コースなら刺繍キット、パソコンコースならパソコンソフトと、修了したコースに応じたツールキットがもらえるとあって、100名以上の修了生が詰めかけていた。
政府側の代表者や修了生の代表による長いスピーチの後、ツールキットの贈呈式がやってきた。私もパソコンコースの修了生への贈呈係。「おめでとう!」若い女性の修了生にそう言ってソフトウェアを手渡しながら、彼女が今後活躍して、周りの女性に勇気と希望を与えてくれるといいな、そう思った。

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修了式でソフトウェアを手渡す

DDRと職業訓練
2001年にタリバン政権が崩壊し、国際社会が復興支援を開始した際、主要国がそれぞれの「担当分野」を決めることになった。アメリカは新国軍の創設、イギリスは麻薬対策、イタリアは司法改革、ドイツは警察再建。そして日本はDDRであった。あまり耳慣れないこの言葉は、Disarmament, Demobilization and Reintegration(武装解除、動員解除、社会復帰)の略である。除隊兵士から武器を回収し、部隊を解散させ、社会に復帰させる。日本でも第2次世界大戦後にあったこのプロセスがないと、兵士が再武装し、元の状況に戻りかねない。そういう意味で非常に重要な活動である。

このうち最後の「R(社会復帰)」は最も重要なプロセスではないかと個人的には思っている。社会に復帰できるという保証がなければ武器を手放さないだろうし、たとえ武器を手放しても、生活していく術がなければ、困窮した元兵士が反政府勢力側に回ってしまうなど、社会の不安定要素になりかねないからだ。

しかしタリバン政権時代、兵士も含め多くの人々は満足に教育を受けられず、仕事で使えるスキルを得ることができなかった。そこでJICAは2004年に「基礎職業訓練プロジェクト」を開始。2006年5月までに、現地NGOを活用して除隊兵士554人に対し木工、煉瓦工、溶接などの分野で職業訓練を行ったほか、指導員訓練を68名に対して行った。就業率は平均87%と高い実績を残した。

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JICA基礎職業訓練プロジェクト(溶接コース)の様子

2006年6月、アフガニスタン政府はDDRプロセスが終了したと宣言。これにより基礎職業訓練プロジェクトは、訓練対象者を除隊兵士のみならず帰還民、国内避難民、若年失業者、女性などの社会的弱者にも拡大した。

訓練は最初、日本の草の根無償資金協力で建設された全国9か所に職業訓練センターのうち、カブール、マザリシャリフ、バーミヤンの3センターで直接実施。2008年4月からは、NSDP(National Skills Development Program:国家技能開発プログラム)という国家プログラムと連携する形で、9か所すべてのセンターにおいて支援を行った。訓練職種は溶接・板金、電気配線、コンピューター、裁縫、配管などである。今年6月のプロジェクト終了までに、2,788名が訓練を修了した。また上記3センターでの就職率は、平均73%とこちらも高い実績を残した(2006-2008年。2008年度は追跡調査を継続中)。

訓練修了生の声
「日本の支援のおかげで職を得ることができた。日本にはとても感謝しています」
そう語る修了生のジャウィッドさん。NHKの番組「クローズアップ現代」の取材班が6月、アフガンに取材に来た際、彼に白羽の矢があたった。大きなテレビカメラの前で心なしか緊張しているように見える。
 現在22歳の彼は今年1月にJICAの電気配線コースを修了。今は就職し、出来高制で働いている。

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NHKの取材を受けるジャウィッドさん(右端)

「高校を卒業したけれど、大学は狭き門で受かりませんでした。アフガニスタンでは今後5年間で70万人が中等教育を修了すると言われているのに、全国で毎年12000人しか大学に入れないんです。僕の同級生の多くも進学できませんでした」
 復興プロセスにおいて、各国の支援により初中等学校への就学率は伸びたものの、高等教育機関の受入体制が整備されておらず、大学に進みたくても進めない若者が増加していることが社会問題になっている。職のない若者の増加は、社会の不安定要因になるからだ。
「そんなときJICAの職業訓練コースを知り、訓練を受けました。修了後に就職し、今はだいたい毎月300ドルくらい稼いでいます。この給料で母親と2人の妹を支えています。電気職人という技能を身につけたことで、周りからも評価されるようになったと感じています。今後は身に着けた技能をもっと磨いていきたい」
 ハキハキと語る彼だが、幼いころ難民としてパキスタンに逃れ、12年暮らした過去と、14年前に父親を爆弾テロで亡くした経験をもつ。彼の話を聞きながら、職を得るということが単に生計を立てるというだけでなく、人としての尊厳や、未来への希望にもつながるのだということを実感した。

課題は山積み
職業訓練分野では他ドナーからも一目置かれているJICAだが、課題も山積している。まずは就職先の確保だ。前にJICAの職業訓練は高い就職率をあげていると書いたが、これはJICAの日本人専門家が、一つ一つ就職先を開拓していった成果の賜物であり、通常、就職先を探すのはそれほど容易ではない。また就職率は地域差が大きい。カブール、マザリシャリフなどの都市では働き口が多いものの、バーミヤンは極端に少なく、毎年同じコースの修了生を出していたら、すぐに働き口がなくなってしまうのが現状である。

こうしたときに痛感するのは、産業政策とひもづいた職業訓練政策の重要性である。産業がなければ就職口も生まれないからだ。残念ながらアフガニスタンではこのような政策がきちんと策定されていない。しかし資源が少ないアフガニスタンでは、農業が最も大きな産業である。かつてはドライフルーツの最大輸出国の一つだった時代もあり、ポテンシャルは高い。農業と農産品の加工を産業の基盤として再振興し、これにひもづいた職業訓練を実施していくことが、この国の貧困層を減らし、経済基盤を強化していくための重要なステップになるのでは、と思う。

指導員の不足も問題である。前述のNSDPでは「2013年までに15万人に対して職業・技能訓練を行う」という目標を掲げているが、教える人が十分いなければ訓練もできない。現在はマスタートレーナーの不足もさることながら、トレーナーの指導レベルにもばらつきがあることが問題視されており、目標達成の道のりは遠い。

女性の就労も難しい。男女隔離の風習が残るアフガニスタンでは、本人が働きたくても、家族に反対されることが多いからだ。JICAの職業プロジェクトでも、洋裁コース、刺繍コースの修了生にそのような女性が多いのが現実である。

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JICA基礎職業訓練プロジェクト(裁縫コース)の様子

オーナーシップの大切さ
問題山積の職業訓練であるが、社会的な仕組みが一度崩壊してしまったこの国において、最初から上手くいく取り組みなど恐らくないのだろう。混乱の中、支援や取り組みが先行し、政策が後づけになってしまうことも仕方のないことなのかもしれない。しかし、どんな支援においても重要なのは、アフガニスタン側のオーナーシップを尊重することだ。援助機関はいずれ去る。その時、アフガニスタン政府が自ら課題に取り組む力をつけていなければ、国はまたもとの状態に戻りかねない。こうしたことを常に意識しながら、JICAの専門家や所員は今日も、混乱の続くアフガニスタンで支援を続けている。

                                                      * * *

気づいたら、約1年半が過ぎていた。人事異動の内示があり、6月末に帰国。あっという間の1年半だった。これまでの連載でアフガニスタンにおけるJICA事業全般、担当分野である農村開発、ジェンダー、そして職業訓練について紹介してきたが、次回は、アフガニスタンでの経験をまとめて振り返りたいと思う。

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帰国後1ヶ月の今。

帰国して1ヶ月ちょっと経った。

既にカブールにいないので「カブールの窓から」というタイトルを変更しなきゃあ、と思っている。とはいっても、今の職場が新宿だからといって「新宿の窓から」とするのも野暮だし、悩み中である。

帰国してから色々な人に「アフガン大変だったでしょう」と半分哀れみ、半分奇異な目で見られたり声をかけられたりしたが、正直そこまで大変だったとは思っていないので、何だか変な気分である。

逆に、帰国直後は「アフガニスタンに戻りたい」という思いに駆られて仕方なかった。住めば都、とはよく言ったものである。

帰国後一番困ったのは、体力のこと。アフガニスタンでは防弾車での移動が中心で、外を歩く機会がほとんどなかったので、どうも足の筋肉が落ちたらしい。1時間以上の通勤が地獄のようだった。青色吐息で出社し、退社する日々がしばらく続いた。ヒールの高い可愛いサンダルも、すぐ豆が出来るし、疲労が増すだけなので、履くのをやめた。もともとあまりオシャレに気を使わない性質に拍車がかかってしまった。

なんとか生き延びて?きたこの1ヶ月だったけれど、「アフガニスタンにいました」と言うと興味を持ってくれる人がいるのは嬉しい。そうした人に、できるだけ「アフガニスタンの平和な一面」を知ってもらえたら、と思い、制作した写真集(以前ブログで紹介)を持ち歩いてお見せしている。「紛争のイメージしかなかったアフガニスタンにこんな一面があったなんて」と好評だ。

アフガニスタンでお世話になった農村復興開発省の副大臣に、離任間際にこう言われた。「日本に帰っても、アフガニスタンのAmbassador(大使)として、アフガニスタンのことを伝えていってほしい」。

これからも写真などを通じて、アフガニスタンのことを知ってもらえるよう、ちょっとずつでも活動していきたいな、と思うこの頃である。

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アフガンが呼ぶつながり

先日、不思議な「同窓会」があった。

集まったのは大学時代の同級生と、高校時代通った塾の友人、そしてJICAの同僚、私の4人。

みな現・旧アフガン援助関係者の女性である。

大学時代の同級生Iは、以前ブログで紹介(「チャグチャランの同級生」)したアフガニスタン・チャグチャランのPRTで働いている人。一時帰国したら会おうね、と言っていたのが実現した。約8年ぶりの再会。

塾の友人Sは、約10年ぶりの再会。今は某大学で助教を務めている。友人Sは、大学時代にペルシャ語を勉強していて、その関係で大学時代イランを訪れた際、同級生Iとたまたま知り合ったらしい。その際同級生Iに「野村さんって知ってる?」と聞いてくれて、「知ってるよー」という会話があったのだとか。面白いのはそれから。最近放映された「NHKクローズアップ現代」で同級生Iが登場しているのを見て、ウェブで検索したところ、たまたま私のブログを発見し、同級生Iのみばかりか私もアフガンにいたことを知ったらしい。それで私の実家の電話番号を引っ張り出し、電話をくれたのだ。なんと、勤務先の大学ではアフガン人留学生を受け入れており、以前アフガニスタンに調査に行ったことがあるらしい。連絡をもらうまで全く知らなかった。

JICAの同僚Sは、現在アフガニスタン支援に本部で関わっている。以前、JICAではないがアフガニスタンで数年間仕事をしていたことがあり、その際、同級生Iと知り合った。彼女も大学時代、ペルシャ語を勉強していた。

最初、塾の友人Sと「会おう!」という話をしていたところ、ちょうど同じ時期に同級生Iが一時帰国することがわかり、同級生Iが「JICAの同僚Sも呼ぼう」・・・ということで、とんとん拍子に「同窓会」が決まった。

ちなみに塾の友人SとJICAの同僚Sは今回初めて会ったのだが、なんと同じ大学・学部を卒業していたことがわかった。確かに日本でペルシャ語を学べる学部・学科は・・・少ない。

アフガンの話でひとしきり盛り上がった、楽しい晩だった。

高校時代と大学時代の同級生を、再び巡り合わせてくれたアフガニスタンに感謝。

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母校の広報誌に記事掲載: 第3回 アフガニスタンの女性とJICAのジェンダー支援

忘れられない光景

今でも時々思い出す、印象的な光景がある。

それは今年3月、「地方開発支援プロジェクト」(前号で紹介)のサイトの一つ、バルフ州のウルズガニ村を訪れたときのことだ。そのサブプロジェクトでは男性たちが村落道路の建設を、女性たちは裁縫訓練を行っており、進捗や成果、今後の予定を聞こうと考えていた。村に着くと、20人近い代表の村人たちが集まっていた。しかし女性はいない。

「女性はあちらの建物の中で待っているので、あなただけ行ってきて下さい」。

そう、ここはアフガニスタンの農村。パルダと呼ばれる男女隔離の風習が強く残っている場所だ。その村を訪れた女性は私と、プロジェクトの実施に関わっているNGOのアフガン女性だけ。男性は、日本人であっても会うことは許されない。

女性であることの特権であるような、特別な機会をもらったような、不思議な気分になりながら建物の中に入った。そこは入口が一つしかない部屋だった。

真昼ではあったが、電気のない土造りの部屋の中は薄暗く、ひんやりしていた。畳10畳くらいの広さの部屋に、若い女性から老いた女性まで、約15名が地べたに座っていた。壁に張り付くようにして座り込んでいるその女性たちは、みなチャドルを羽織り、前をかき合わせて目だけを出していた。ものも言わず、興味深げな目だけが私の方を行ったりきたりしている。ちょっと異様な光景だ。

「裁縫訓練はどのように実施したのですか?」「裁縫訓練を通じてどれくらい収入が向上しましたか?」「他に女性の収入向上につながる活動にはどのようなものがありますか?」・・・いろいろ質問してみる。NGOのアフガン女性がダリ語に訳してくれる。その場にいる女性たちは、控えめな様子で答える。

「訓練でつくった服を、見せてもらえますか?」そう聞くと、一人の若い女性が立ち上がって、わずかに開いていた扉を閉めた。そして被っていたチャドルをとった。自分で縫った服を着てきてくれていたのだ。それは光沢の入った生地で縫った素敵な銀色のワンピースだった。その場の雰囲気が一瞬華やかになったように感じた。

しかし私にとっては、服よりも、チャドルをとるためにわずかに開いていた扉を閉めた、という行為そのものにびっくりしてしまった。それはまるで、女子高生が体育着に着替える前に、教室の扉を閉めに行くような行動だったからだ。でも目の前にいる彼女たちはもちろん服を着ていて、ショールを被っているだけである。

「戒律の厳しい農村では、アフガニスタンの女性が、男性に顔や体の線を見られたりすることは、裸を見られることと同然なんだ」・・・頭では理解していたが、感覚的に理解するのに十分なワンシーンだった。

しばらくして、私は女性たちとのミーティングを終え、すぐ外で行われていた男性の村人たちとのミーティングに加わった。「外国人女性」である私は、アフガニスタンの風習に縛られることなく、自由に男性のミーティングにも加わることができる。しかしその後30分以上にわたる男性の村人とのミーティング中、建物の中にいる女性が外に出てくることは一度もなかった。男性が外にいて、姿を見られる可能性があるうちは出ないつもりだったに違いない。

同じ女性なのに、この違いは何なのか。自分が女性だからこそ受益者である彼女たちと会えたのに、逆に自分と彼女たちとの間にある大きな溝に気づく結果となった。アフガンの女性のことを考えるとき、今でもこの日のことを思い出す。

アフガン女性がおかれた状況

 200112月のボン合意以降、国際社会は様々な復興支援をこの国に対して行ってきた。しかし7年が経過した今も、女性を取り巻く環境は依然として厳しい。2007年の国連人間開発報告書によれば、平均寿命、教育・生活水準などを組み合わせた同国のジェンダー開発指数は、世界でも下から2番目である。

たとえばアフガニスタン人の平均寿命は、男性が45歳、女性が44歳であり、女性の方が男性より短命である数少ない国の一つだ。また妊産婦死亡率は10万出生対1600であり、これは先進国の60倍、日本の妊産婦死亡率と比較すると約390倍。世界で2番目に高い数値となっている。

 教育の機会に十分アクセスできない女性も多い。2005年のユニセフの報告によれば、15歳以上の成人の識字率は32%、成人女性の識字率は11%であり、農村の女性に限れば8%にとどまっている。

前述のとおりアフガニスタンはパルダと呼ばれる男女隔離の社会風習が残っており、女の子は10歳を過ぎると家族から外出を制限されるようになることが多い。このため学校に通えなくなったり、男女別の教育施設が近くにないために通学を続けられなくなる女の子もいる。女性が教育を受けるには女性教員が不可欠だが、女性教員の数も全体の28%にとどまる。これは平均値であり、一部の州ではこの割合が5%を切るところもある。

 教育を続けること自体がリスクにもなっている。20057月から2007年の2月までに192校の地方の女子高が焼き討ちになったと言われるほか、2008年には女性生徒や女性教員が顔に硫酸をかけられるという痛ましい事件が多発した。

 女性に対する暴力は、強制結婚や幼児婚といった形でも残っている。アフガニスタンの憲法では女性は16歳、男性は18歳になったときに結婚できるものと定められているが、地域の慣習法では若年での結婚を女性に強いており、9歳の女の子が50歳の男と結婚させられるといったような事例が後をたたない。また部族間、家族間の紛争を解決する手段として「交換結婚」が行われ、両家の家族から少女を相手方の兄弟、あるいは父親と結婚させるというような慣習も多く報告されている。

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路上で物乞いをするブルカを被った女性

 

アフガン政府の取り組みとJICAの支援

 こうした課題に取り組むため、アフガニスタン政府は「アフガニスタン国家戦略(ANDS)」および「アフガニスタン国家女性行動計画(NAPWA)」を策定し、達成目標を設定した。2002年には女性課題省が設置され、同省は政策・調整官庁として各省庁の政策・事業実施状況をジェンダーの視点からモニタリングしたり、提言を行うといった役割を担っている。しかし職員の能力にはまだ多くの課題がある。

JICAは同省にジェンダー主流化政策アドバイザーを2002年から2008年まで派遣したほか、2005年から2008年まで、同省をカウンターパートとして「女性の経済的エンパワメントプロジェクト」を実施し、バルフ州、バーミヤン州、カンダハル州において女性の生計向上を支援してきた。

今年1月からは「女性の貧困削減プロジェクト」を開始。アフガニスタンにおける貧困女性の経済状況を改善するために、これを主導すべき女性課題省の組織強化を図るというプロジェクトである。たとえば前述のANDSでは「2010年末までに貧困女性世帯主家庭の20%削減するとともに、同家庭の雇用を20%増加させる」という目標が設定されており、女性課題省としてこうした目標を達成していかねばならない。しかし女性課題省は政策官庁であり、事業実施官庁ではない。実際の事業実施は他省と連携して行う必要がある。この「連携」をいかに女性課題省職員が実現し、成果を出していくかがプロジェクトの根幹である。

 この国のジェンダー支援で難しいのは、エンパワメントされた女性が活発になればなるほど、タリバンなど保守的な反政府勢力のターゲットになりやすいことだ。政治・社会活動を活発に行うような女性の存在を、彼らは好ましく思っていない。女性課題省の地方局の高官の中にも、襲われて殺された女性もいる。「貧困女性」を支援することはこうしたリスクが少ないものの、国家を率いるような女性を育てていこうとする場合、こうしたリスクを考慮せざるを得ない。

西欧の価値観の押し付けか?

「ジェンダー支援?西欧的な価値観を途上国に押しつけるのはいかがなものか」という人もいるかもしれない。「男性の自分には何だか近寄りがたい」と感じる人もいるだろう。しかし、アフガン人が人間らしい生活を送れるよう支援するということは、必然的に人口の半分を占める女性も対象とするということだ。そしてアフガニスタンにおいて女性の多くは社会的弱者であり、意思決定にかかわれる機会も限られている。そうした女性の置かれた状況に配慮していかなければ、支援は男性中心の偏ったものになってしまう。そうした支援が、この国の健全な発展につながるだろうか。

昨年末まで2年半、女性課題省でアドバイザーとして活動した久保田専門家がこう言っていた。

「私にとって、ジェンダーの視点をもって支援を行うとは、女性が人間として生きることを確保するための活動を行うことであり、そうした女性たちのために闘っている現地の人々に連帯することだと考えています」

アフガン女性が、尊厳を持って、人間らしく生きることができる。そうした社会が実現する日を願ってやまない。

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アフガニスタンのキリム

行動制限の関係で、外で自由に買い物ができない日々を15か月ほど送ってきた。

そんな中、私が楽しみにしているのは、ゲストハウスで時おり行われる絨毯販売会だ。春になると、週末、ゲストハウスの庭はにわかに絨毯で埋め尽くされる。デザインも様々で、見ているだけで楽しい。ゲストハウスが絨毯屋を呼ぶ場合もあれば、ほかの日本人専門家が絨毯屋に声をかけて、来てもらうこともある。後者の場合は、他のJICA関係者にも「○日にどこそこで絨毯販売会やります」と声がかかる。他に行く場所もないので、同じゲストハウスに住んでいる見知った顔が集まることになる。

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ゲストハウスの庭に敷き詰められた絨毯

アフガニスタンに赴任して 以来、合計3枚の絨毯とキリムを購入した。最初に買ったのはイラン製の中サイズの絨毯。アフガンに来たのにイラン(ペルシャ) 絨毯?とは思ったが、デザインに一目ぼれして買ってしまった。

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絨毯販売会の様子

残りの2枚はキリムである。キリムとは中央アジアから西アジア、北アフリカにかけての乾燥地帯や草原地帯を移り住んでいる遊牧民の手による平織りの織物(ラグ)のこと。キリムの歴史は絨毯より古いと言われているらしく、その起源は7000年以上前にさかのぼるという。

遊牧民が日常生活で使ってきただけあって、そのデザインや色合いは素朴で、なんだかほっとさせられる。私が買った2枚のうち1枚は玄関用の小サイズ、もう一枚はリビングルーム用の大サイズ。それぞれ違う時期に買ったが、ダークブラウンを基調にしたデザインで、全く同じデザインではないものの親和性がある。

この親和性、偶然かと思っていたのだが、最近キリムに興味を持って色々調べるうちに、織り手である遊牧民族によってデザインや色合いに特徴があることがわかってきた。

日本にある絨毯・キリム専門店のHPには、国や民族ごとにキリムの特徴が解説されている。アフガニスタンについてはこんなことが書かれている。

遊牧民が先祖代々伝えてきた伝統と文化が色濃く残っているアフガニスタンでは、その部族に伝わるオリジナルな模様と独特の色彩 をキリムの中に見ることができる。
アフガニスタンキリムは大きく3つのグループに分けることができる。

アフガニスタン北部のトルコ系部族
北西部のモンゴル系部族
西部から南西部のバルーチ族。
複数の織りの技術を用いたものが多く見られる。ソ連侵攻、内戦、米国のテロ報復攻撃など国内の混乱により、遊牧民の暮らしやキリム作りも打撃を受けてきた。

このうち私が購入した2枚のキリムは、どうやら③のバルーチ族のものらしい。

バルーチ族の織るキリムは、西部のチャカンスルという町で作られるものが有名。
濃紺にこげ茶や茜赤などを合わせたシックなデザインが特徴。
その中に少量のベージュや白がアクセントになっているものが多く見られる。
鳥、花をモチーフに独自のパターンを作り出している。

この説明通りのキリムなのである。

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購入したキリムのひとつ

キリムに織り込まれている様々な幾何学的な模様は、身近にある自然や動物の他に、代々受け継がれた伝統的なもの、部族や地域独特のもの、信仰や祈り等を表現したものがあるらしい。

織り手の多くは女性。また女の子が生まれると、結婚までに嫁入り道具として必要なキリムを準備するらしい。

しかし遊牧民族自体が激減しているために、自分や家族のために織られたキリムは40-100年前のものが多く、これらは「オールドキリム」と呼ばれているそうだ。私が買ったキリムはこれである。また100年以上前のものは「アンティークキリム」と呼ばれる。この2つは今では希少価値となりつつあるらしい。

そんなことを知ってから改めて自分が買ったキリムを眺めてみる。すると一枚のキリムから、民族の歴史と、織った人の思い、これを使ってきた家族の温もりさえ感じられる気がしてくるから不思議だ。

目下の心配は、日本にキリムを持って帰ったとき、敷くスペースがあるかどうか。狭い日本の居住環境を恨めしく思うこのごろである。

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母校の広報誌に記事掲載: 第2回 アフガニスタンの農村開発 ~バーミヤンの農村にて~

バーミヤン州シェベルト村にて

5月だというのに、そこでは雪が降っていた。

  標高3000メートルの高地にあるバーミヤン州のシェバルト村。バーミヤン中心部から、車で1時間半ほど走ったところにある。目の前には、シェバルト村をはじめ5つの村々の住民が力を合わせて建設している灌漑用のため池が広がっていた。

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 このため池建設は、私が担当している「地方開発支援プロジェクト」が行っている19か所でのサブプロジェクトの一つである。

 「冬は活動ができないので中断されていましたが、一番重要な水門の建設が終わっているので、あとは壁を完成させるだけですね」と、プロジェクト副総括の野田さん。山の中腹にあるこのため池には、山頂からの雪解け水が川となって流れ込み、水が貯まる仕組みになっている。貯まった水は、雨量の少ない時期(春から夏)に、農業用水として使われる。貴重な水を有効活用するための「命のため池」だ。

 建設現場から少し離れたところにある村の家で、住民の代表との協議が始まる。10畳ほどの狭い部屋の床に、20人近い関係者が丸くなって座り込む。バーミヤン州はモンゴル系のハザラ人が多数を占める地域で、住民も日本人と似た顔立ちの人々ばかりだ。そのせいか、どことなくホッとしてしまう。

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 5つの村が共同で実施する、このプロジェクトの住民側リーダーが語る。

「このプロジェクトを始める前は、村同士のコミュニケーションはあまりなかったんですよ。何か問題が起きれば、村の長老が集まって話し合いをするだけでした。それに、この地域は夏に水不足になるため、村の間で水を巡る争いがよく起きていたんです。でも、3つの村が力を合わせてため池を建設する過程で、そうした争いもなくなりました。昨年、我々の村々は干ばつに見舞われましたが、以前のように争うことはありませんでした。『来年はため池が完成する』という期待感があったからこそ、争いを避けられたんです。ここにいるプロジェクトの経理担当は、別の村のリーダーですが、プロジェクトを開始する前はお互い仲が悪くて、お互いの村に不満があっても、話し合うことはせず、直接政府にかけあっていました。でもプロジェクトを通じて関係が改善し、今では直接話し合う仲です」

 そういって、彼は横に座っていた経理担当の男性に笑いかけた。経理担当の彼は照れたように脇を向いた。

 この地域は、牧畜やカーペット織が主要な収入源となっている。しかしため池ができれば、農業を活性化できるだけでなく、牧草地が拡大できるので牧畜もさらに活性化できるという。

 「あと、ため池ができると地下水の水位が上がるんです。これまでは、水不足の季節になると井戸の水位が下がり、飲料水にも困っていましたが、ため池ができればそうした問題も解決できます」

 水が手に入って当たり前の国・日本にいると、水がいかに生活にとって重要か実感しにくい。しかしアフガニスタンのような水資源に乏しい国では、水不足が村同士の争いの種になり、それが殺人事件にまで発展し得ることもある。

 この灌漑用ため池プロジェクトが、村の住民の生活改善だけでなく、村同士の連帯強化につながったのだと知り、嬉しくなる。こういう時、この国の農村開発に関わって良かったなあ、と思う。

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アフガニスタンと農村開発

アフガニスタンでは、20年余り続いた内戦が2001年に終結した後、国家再建に取り組んできた。中でも総人口の80%が農村に住む同国において、農村の復興と開発は、同国の復興にとって極めて重要な政策課題である。労働人口の70%以上が農業で生計を立てており、GDPに占める農業の割合は53%に上る。

過去約8年間、様々な取り組みがなされてきたが、未だに課題は山積している。全国の農村の58%が、通年ないしは特定の季節になると道路へのアクセスがなくなるほか、同様に農村人口の13%が電気の供給が断たれる。また70%の農民が安全な飲料水を得ることができない。阿片用の芥子栽培に従事する人口も、総人口の14%(33百万人)いると言われている。

 アフガニスタンでは、「アフガニスタン国家戦略(ANDS)」のもと、農村復興開発省が中心となってこうした課題に取り組んでいる。日本をはじめ多くのドナーが資金的、技術的な支援を行い、その取り組みを支えている。こうした取り組みの中で最も規模が大きいのは世界銀行によるNSP(National Solidarity Program: 国家連帯プログラム)だ。2003年に開始して以来、全国で約22,000箇所に村の代表者で構成されるCDC(Community Development Council: コミュニティ開発委員会)を立ち上げ、この委員会を通じて43,000件のコミュニティ開発プロジェクトを実施した(20094月時点)。プロジェクトは灌漑施設の建設、発電所建設、学校建設といったもので、村のニーズをもとに住民自らでプロジェクトを決め、それに世銀から資金(ブロックグラント)が提供され、実施されるというものである。

コミュニティ開発と平和構築

 冒頭に紹介した「地方開発支援プロジェクト」は、このCDCを基盤として実施している。NSPとの違いは、NSPCDCつまりコミュニティごとに小規模のプロジェクトを実施しているのに対し、地方開発支援プロジェクトでは近隣の複数(45つ)のコミュニティをまとめ(クラスター化)て、資金的により大きな規模のプロジェクトを実施していることだ。

前に紹介したように、クラスター化することで、それまでコミュニケーションが少なかった村同士の関係が深まるといった効果も生まれている。プロジェクトはバーミヤン州をはじめ北部のバルフ州、南部のカンダハル州で実施されているが、たとえばバルフ州はバーミヤン州と異なり多民族州で、パシュトゥー人、タジク人、ハザラ人、アラブ人などが村に混在している。そうした村々での民族間の連帯を強める効果も表れている。近年、JICAは紛争復興国における平和構築に力を入れているが、地方開発支援プロジェクトはまさにコミュニティ開発を通じてアフガニスタンの農村における平和構築を促進しているといえる。

農村開発支援のチャレンジ

しかし、農村開発支援をするにあたっての課題は事欠かない。一つはやはり、治安だ。たとえば地方開発支援プロジェクトでは、カンダハル州にもプロジェクトサイトがあるが、治安の悪化により現在は日本人専門家が現地に入ることができない。完成品を日本人専門家が直接確認することができないため、品質管理が難しくなる。地方に出張する際も、都度JICA事務所への申請が必要だ。また、どんなに離れたプロジェクトサイトであっても、夕方までには州都にある宿泊先に戻ってこなくてはならない。つまり遠隔地になればなるほど、現地での確認、協議時間を十分にとれなくなる。

持続性も大きな課題である。現在は前述のNSPや、様々なドナーによる農村開発支援が行われているが、ドナーの資金支援なしには、アフガニスタン自ら農村開発を行っていくための財源は無きに等しい。NSPなどのいわゆる「国家プログラム」に関わっている優秀なアフガン人も、公務員ではないので、プログラムが終了すればほかに行ってしまい、知見が残らない。また公務員の給与も毎月60200ドル程度と低く、公務員になろうというインセンティブは低い。このため政府機関における公務員の離職率は高く、人材・組織・制度の能力向上は行きつ戻りつの状態である。農村開発には現地の状況を理解している地方政府の役割が重要であるが、地方政府の役人の能力はまだ低いと言わざるをえない。

 いかに女性に裨益する支援を行うか、という点についても注意が必要だ。アフガニスタンは「パルダ」と呼ばれる男女隔離制度が存在しており、農村ではその伝統がより強く残っている。私が訪れた農村のプロジェクトサイトでも、村の女性が協議に参加したケースはほとんどなかった。ブルカと呼ばれる目の部分のみが網状になったヴェールを被った女性の姿が、タリバン時代に抑圧された女性の象徴として取り上げられることがよくあるが、都市・農村を問わず、このブルカを被る女性は未だに多い。男性と女性が共に話し合うことができないということは、女性のニーズを反映したコミュニティ開発が難しくなるということを意味する。地方開発支援プロジェクトでは、女性のニーズをくみ上げるために、男性のCCDC(クラスターCDC)と女性のCCDCを分けて設立し、それぞれの要望を反映したプロジェクトを実施した。たとえば冒頭で紹介したシェバルトCCDCでは、男性は灌漑用ため池建設を、女性はカーペット織組合活動を選択し、実施した経緯がある。

バーミヤン仏像遺跡跡にて

ユネスコの世界遺産であり、2001年にタリバンに破壊された仏像遺跡があることで知られるバーミヤン。仏像遺跡跡はバーミヤン中心市街からすぐのところにあり、宿泊先のホテルからはそそり立つ赤い岩山と、かつては仏像が存在した2つの穴(西大仏と東大仏)を遠くに眺めることができる。

雪解け水で潤うバーミヤンは、埃っぽく物騒なカブールと異なり、小麦やじゃがいも畑の青々とした緑が美しく、まるで桃源郷のようである。治安も他州に比べ格段に良い。

しかし現実は厳しい。バーミヤンはアフガニスタンの中でも最貧困州の一つだ。1年の半分近くを厳しい冬に閉ざされ、農作業ができる期間は限られている。収穫した農作物も、保存施設が不足しているため、季節をずらして出荷するなど付加価値をつけることができない。険しい山岳地帯において舗装道路はほとんどなく、マーケッ トや医療、教育へのアクセスもままならない。バーミヤン市内でさえも電力の供給がなく、夜になれば真っ暗である。バーミヤン市には民間機、国連機が到着する小さな空港があるものの、有視界飛行のため、雲が厚くなるだけですぐにキャンセルされてしまう。実際、私のカブールへの帰路便も曇りのためにキャンセルになり、翌日の便で帰る羽目になった。

この美しいバーミヤンを、観光客が自由に訪れ、快適な旅を楽しめるようになるまでには、どれくらいの年月がかかるのだろう、とふと思う。

同時に、観光客など来なくとも、この土地の人々が人間らしい生活が送れるようになれば、それで十分だとも思う。

そんなことを考えながらバーミヤン仏像遺跡跡を眺めていたら、突如として空が曇り、夕立に襲われた。しばらくして雨があがり、ふと振り返ると、見事な半円の虹がかかっていた。その虹が、この国の平和と希望を象徴しているかのように見えた。アフガニスタンに平和が訪れたとき、一個人としてまたバーミヤンを訪れたい。そう思った。

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チャグチャランの同級生

1週間ほど前、突然「在アフガニスタン日本大使館のイシザキさん」から電話がかかってきた。

それまで大使館でイシザキさんという名前は聞いたことがなかったので、、「新しい人が赴任してきたのかな?」と思ったら、なんと学部時代の同級生だった。今年5月、政府が派遣を決定したNATOの地方復興チーム(PRT)に送る初の文民要員として、一般公募で選ばれたらしい。

PRTとは軍と文民が協力して地域復興にあたる枠組みのこと。地域ごとに拠点を設け、軍が治安維持や警察支援などを担い、文民が教育や保健分野の復興支援に当たる。アフガンでは米英独など14カ国が26カ所で活動している。

日本の文民4人がリトアニア軍が駐留する中西部ゴール州のチャグチャランで活動するとは聞いていたが、2人は外務省職員で、残り2人は公募。そのうちの一人だったのである。彼女は学部時代にイスラム系のゼミに在籍していて、卒業後は在日本イラン大使館で働いていたことは知っていたが、こんなところで再会(電話だったけれど)するとは思わなかった。

明日チャグチャランに出発する、というので残念ながらすぐに会うことはできなかったけれど、同じ国で同級生が頑張っていると思うと心強い。

関連記事:
(毎日新聞)アフガンPRT:政府、文民4人派遣へ 教育、インフラを整備
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090525ddm003030148000c.html

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ダニとの戦い

今カブールは初夏を迎えている。

事務所の庭にはバラが咲き誇り、クワの木は青々とした葉を茂らせている。

一年で一番過ごしやすく、また一番美しい季節だ。

厳しい自然環境ならではの、植物の生命力を感じるこの季節が私は大好きである。

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大好きなクワの木

しかし初夏の到来はまた、ダニとの戦闘開始を意味する。

ダニの生命力も植物に負けていない。果敢に人間に向かってくる。

私も昨年に引き続き、すでにかなりの被害に遭っている。

とりあえず刺された箇所を数えてみたら、全身で39か所あった。

外国人は食われやすいのか何なのか、同僚もてきめんに被害に遭っている。

ゲストハウスの部屋によってもダニが出やすい部屋とそうでない部屋があり、昨年、出やすいと言われる部屋に住んでいた同僚の足ときたら、それはそれはひどかった。

まるで伝染病にかかったような状態になっていた。

とにかくアフガンのダニは、その痒さが半端ではない。仕事しているときも、寝るときも、思い出したように痒みが戻ってくる。

集中力はそがれるし、寝ようとしても寝付けない。

痒み止めも、ほとんど効かない。

ダニに業を煮やした同僚の一人が、ダニ駆除をしようと調べたところ、

ベッドには通常100万~3億のダニがいるらしいことがわかり、驚愕していた。

しかしそのうち人間を食うのは数パーセントらしい。

またダニは70%程度の湿度で活発になるらしく、アフガニスタンはもともと湿度が低いので、ベッドやソファの内部の湿気で生きているのでは、と言っていた。

ただ室内の換気を良くすれば湿度は簡単に下げられるので、換気と布団の天日干しを実践したところ、刺されなくなったと自慢していた。

それにしても、強力な攻撃力をもつアフガンのダニに対して、こちらの対抗手段が換気と布団干しだけというのは、少々心もとない。

ここでは自由に買い物に行けないので、殺虫剤も持っていない。

日本から持ってこようにも、バルサンなどの殺虫剤は、預入も機内持ち込みもNGなので、無理である。

そういえば自爆テロは、春になると件数が増えると言われている。

テロとの戦いの季節は、ダニとの戦いの季節なのである。

ダニとの戦いには終わりがなさそうだが、テロとの戦いは、早く終わりが来ることを願ってやまない。

 

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母校の広報誌に記事掲載: 第1回 アフガニスタンと日本の支援

母校の父母向け広報誌に、今年5月からアフガンの記事を連載しています。4回連載予定。

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アフガン赴任まで

2001911日、ニューヨーク同時多発テロ発生。

「ツインタワーと国防省に飛行機が突っ込んだよ!」

友人からそう電話がかかってきた瞬間をよく覚えている。まだJICAに転職する前のことだ。ちょうどオフィスを出て帰宅する途中だった。

同年10月、米国は同時多発テロをしかけたとするアル・カイダが潜伏するアフガニスタンへの爆撃を開始。そのわずか1月後にカブール陥落。

その7年後に自分が同国で援助の仕事にかかわることになるとは、当時思ってもみなかった。大学時代に難民問題に関心を持ち、勉強していたことから、歴史上最大規模の難民を出したアフガニスタンという国には以前から興味を持っていた。しかし2006年にJICAに転職し、2年も経たないうちにアフガン赴任を打診されたときは、正直びっくりした。

しかしJICAの緒方貞子理事長が以前、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のトップとしてアフガン難民支援に深くかかわっていたこともあり、アフガニスタンはJICAにとって注力国の一つ。組織として力を入れている国で仕事することにも魅力を感じた。

期待と不安を抱えながら、2008117日、カブール空港に降り立った。それはカブールにあるアフガニスタン唯一の5つ星ホテル、セレナホテルが襲撃され、ノルウェーの外交官を含む8人の死者と6人の怪我人を出した事件から、わずか3日後のことだった。

アフガニスタンと日本の支援 

 こうしてカブールに来てから1年以上が過ぎた。私のここでの主な仕事は、農村開発、職業訓練、ジェンダー分野のプロジェクト実施や専門家の活動支援と、これらの分野における支援案件の形成である。それぞれの分野での支援内容については、次の回以降で紹介していこうと思うが、まずはこの国における日本の支援の全体像をご紹介したい。

 日本がアフガン支援を本格的に開始したのは、タリバン政権が崩壊し、国際社会が復興支援の取り組みを開始した2002年はじめのことだ。20021月には東京で第1回アフガニスタン復興支援国際会議を開催し、緒方貞子氏が共同議長を務め、参加国から18億ドル以上のプレッジを取り付けるなど成果をあげた。JICA2002年にカブール事務所を開設。援助重点地域をカブール州のほか北部バルフ州、東部ジャララバード州、そして南部カンダハル州とし、それぞれの州都に現地事務所を開設して支援体制を整えた。

 ちなみにJICAがアフガニスタンを支援するのは今回が初めてではない。1970年代には東部で農業支援を行っていたことがある。日本の支援で稲作開発センターを建設し、いざJICAが日本人専門家を派遣し技術指導をしようという段階になったとき、1979年、社会主義革命の勃発に伴う混乱により支援を引き上げざるをえなくなったのである。JICAにとっては長い時を隔てての支援再開であった。

ただし今の日本政府による支援規模は、かつての支援とは比較にならないくらい大規模である。重点4分野(治安、インフラ、総合農村開発、保健医療・教育)に基づき、2001年から2008年末までに合計約1,600億円の支援を実施。日本の支援に対する認知度も高く、2008年に実施されたアジア財団(米国の財団)のアフガン人に対する意識調査によれば、「どの国が最も支援をしていると思うか」という問いに対し日本は米国、ドイツに次いで3位、「2番目に支援をしている国はどこだと思うか」という問いに対しては日本が2位であった。

JICA

とアフガニスタン支援

なおこれらの支援をJICAが全て行ってきたわけではない。ちょっと固い話になるが、日本による政府開発援助(ODA)には大きく分けて「二国間贈与」「二国間政府貸付」「国際機関への出資・拠出」がある。このうちJICAは「二国間贈与」に含まれる「技術協力」を本来業務として行ってきた。「贈与」との名のとおり、「無償で技術協力を行いますよ」ということである。昨年10月に国際協力銀行 (JBIC)と統合したことにより、今では「二国間贈与」のもう一つの要素である「無償資金協力」の一部と、「二国間政府貸付」つまり円借款もJICAが実施することになったが、これまでのアフガン支援ではこうした日本政府による無償の支援(円借款は行われていない)、アフガンで活動する国際機関への拠出、そしてJICAによる技術協力が混然となって実施されている。

技術協力とは?

「ところで、技術協力って何?」と思われる方も多いと思う。確かに円借款や無償資金協力はその言葉から何となく内容が想像できるのに対し、技術協力はややイメージしにくい。

わかりやすく言えば、技術協力とは「途上国の社会・経済開発を担う人材を育成したり、自立発展に資する制度や組織の確立・整備を支援すること」である。たとえばアフガニスタンでいえば、各省庁が適切な年度予算計画を立てられるようにしたり、農業省が同国の自然環境に合った農業技術の開発・普及ができるようにしたり、教育省が効果的な教師教育を実施できるようにしたり、といったようなことである。通常の技術協力プロジェクトは途上国の行政官を対象とすることが多いが、よく知られている青年海外協力隊も技術協力の一部であり、隊員の活動の対象は学校の先生から農民まで幅広い(ちなみにアフガニスタンでは、協力隊は治安の関係で派遣されていない)。

こうした「人を通じた支援」は手間暇がかかるので、なかなか大規模に実施するのは難しいが、アフガニスタンにおいても着実に支援を続けている。2007年度までに同国で実施した技術協力プロジェクトは24件、日本や第三国での研修への参加者は1,308名にのぼる。現在は15のプロジェクトに約120人の日本人専門家がかかわっており、カブールを中心に常時4060人の関係者が活動している(アフガニスタンに常駐している人とそうでない人がいるため)      

こうした活動を支えるアフガニスタン・カブール事務所では日本人14名、アフガン人(ドライバーや庭師も含む)25名が働いている。北部マザリシャリフ事務所と東部ジャララバード事務所には日本人代表1名がいるが、南部カンダハル事務所には、治安の関係から日本人代表はおいていない。

「ポスト・セレナ世代」

「ポスト・セレナ世代(セレナ以降の世代)」― 私が赴任した20081月中旬以降にアフガニスタンに赴任した同僚や専門家を、私は勝手にこう呼んでいる。前述のとおり、114日にアフガニスタン唯一の5つ星ホテル、セレナホテルの襲撃事件が起きた。この事件を受けて行動規制が一段と厳しくなり、外食も、日用品の買い物も、一切が禁止されることになったのである。

セレナホテルの襲撃事件以降も、カブール市内では象徴的な事件が相次いだ。昨年4月の共産主義崩壊16周年記念式典でのカルザイ大統領暗殺未遂事件、7月のインド大使館自爆テロ、10月の情報文化省襲撃事件、今年1月のドイツ大使館前での自爆テロ等である。治安が改善しなければ行動規制も緩められない。ということで、私は赴任以来カブールのレストランで外食をしたことがない。当然、土産物屋に行ったこともない。つまり「ポスト・セレナ世代」とは、行動制限が厳しくなったために、カブールという街をあまり知らない人たち、ということになる。

ちなみに数年前は市内を自転車で通勤することができたくらい治安が良かった時代もあったそうで、「ポスト・セレナ世代」の私たちはそういう「古き(?)良き時代」の話をうらやましく思いながら聞いている。

加えて私たち事務所員、そして日本人専門家は移動も防弾車を使うことが義務付けられている。また宿舎はカブール市内の限られた場所に限定。また夜は門限があるほか、毎晩無線で安否確認を行っている。

ストレスマネジメントが鍵

こんな風に書くと「さぞかし危険なところで仕事をしてるんですね」と言われそうである。確かに自爆テロなどの事件は自分が通った道や行ったことのある場所で起きているので、運が悪ければ巻き込まれるという思いは常にある。しかし赴任前に抱いていたイメージと、実際に暮らしてみたイメージはやはり違う。確かに危険があるとはいえ、同じ街でアフガン人は通常の生活を送っており、人間らしい営みがあるのである。逆に忘れられがちなのは、精神面の重要性だ。行動の制約が大きく、ストレスの発散が難しい中で、いかにストレスを管理し精神的に健康でいるかというのは、アフガニスタンの援助関係者共通の課題ではないかと思う。

治安と復興支援

治安の悪化は、いろいろな面で復興支援にとって障害となっている。まず治安が悪いと、専門家のリクルートが難しくなる。危険を冒してもアフガニスタンで活動をしようという人の数は、どうしても限られてしまう。開発コンサルなどの企業も同様である。ちなみにアフガニスタンはJICAの活動国の中で唯一、外務省から「退避勧告」が出ていながらも特例措置により活動を継続している国だ。当然、一般の旅行者がアフガニスタン入りすることは勧められていない。

活動場所も制限されてくる。例えば南部のカンダハル州は、復興支援開始当初は日本人が活動することができたが、治安の悪化に伴い20066月にカブールに引き上げた。それ以来、カンダハルでのプロジェクトは現地のアフガン人スタッフに任せ、日本人専門家はカブールからの遠隔操作とせざるを得なくなった。当然、現地とのコミュニケーションが難しくなり、活動に支障が出る。

また活動を制限、ないしはストップせざるを得ないこともある。例えば昨年の夏は、治安悪化が懸念されたためカブールに滞在する日本人専門家の数を制限した。これはカブールをはじめとするアフガニスタン全土で治安維持活動を行っているISAF(国際治安部隊)が、昨年8月、カブール市における治安権限をアフガン警察に移譲することになり、このタイミングでカブール周辺に集結してきていると言われていたタリバンの活動が活発になると想定されたためである。支援は一定期間滞ってしまうが、日本人専門家の安全なしには支援も継続できないので、こうした対応をせざるを得ないのが現状である。

なお今年は8月に大統領選挙が予定されており、これに伴う治安の悪化が懸念されている。アフガニスタンに注目が集まるも、支援に影響が出る一年となりそうである。

オバマ新政権と日本

今年はオバマ氏が米国大統領に就任し、アフガニスタンでの「テロとの戦い」を最優先課題に挙げた。同盟国である日本も、どのような形でアフガニスタンを支援できるかが問われている。しかし自衛隊の派遣の是非が問われる一方で、JICAが実施しているような支援はあまり知られていない。また「アフガニスタン=タリバン、アル・カイダ」という連想はされるものの、アフガニスタンの一般の人々がどのような暮らしをしているのか、という情報はメディアであまり伝えられてないように思う。次回以降、数回にわたり、仕事をかかわった人々との交流を通じて見た今のアフガニスタンの様子について、お伝えしていきたい。

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