母校の広報誌に国際緊急援助隊の派遣体験記掲載
ちょっとアップするのが遅くなってしまいましたが、今年5月に国際緊急援助隊医療チームのメンバーとしてインドネシアに派遣されたときの体験記が、母校の広報誌(中央大学の『草のみどり』)9月号に掲載されました。
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以下全文です。
インドネシアジャワ島中部地震 国際緊急援助隊医療チームに参加して
独立行政法人 国際協力機構(JICA) 国際緊急援助隊事務局
野村 留美子
はじまりは、突然に
「ジャワ島の地震で医療チーム本隊を派遣することになった」
上長からの電話で寝ぼけていた目が覚める。続いた言葉で受話器を落としそうになる。
「野村にも行ってもらおうと思ってる。すぐに荷物まとめてオフィスに来て」
「は、はい、すぐ行きます・・・」
とうとう来たか、この時が。電話を切った後も、ちょっとドキドキしている自分をまず落ち着かせる。食べかけていた朝ごはんを急いで胃袋に詰め込み、これまでの人生で一番早く荷物をパッキングし、家を飛び出した。
いざ出発!
翌朝、私は成田空港にいた。
朝9時半、空港内の特別室にて結団式が始まる。小さな四角い部屋に、医療チーム本隊の隊員17名と、外務省やJICAの幹部、JDR(国際緊急援助隊)医療チームを支えて下さっている先生方、そしてマスコミが詰め掛けていた。
「昨日7名の調査チーム(先遣隊)が出発し、無事現地についたようです。しかし一方でインドネシア政府は非常事態宣言を発令しており、予断を許しません。皆さんが無事に帰ってくることが一番の目標ですので、くれぐれも健康には気をつけて、日ごろの成果を発揮してきてください」
これから派遣される隊員にメッセージが送られる。スピーチを聞く隊員の顔も緊張気味だ。17人全員が、ポケットが沢山ついた紺色の袖なしJDRベストを身にまとっているせいか、独特の雰囲気が室内を漂う。
それにしても、「国際緊急援助隊 JAPAN」と背中に大きく書かれたこのジャケットは、よく目立った。解団式が終わってから、入国審査を通り、機内に乗り込むまで、一団はテレビカメラと周りの視線を浴び続ける。「ああ、本当に日本の代表として行くんだなあ・・・・」 突如自分が置かれた境遇の変化に戸惑いつつも、自分のベストを尽くそう、そう思った。
転職、そして緊急援助の世界に
1年前だったら、自分が突如インドネシアに派遣されることになろうとは想像もしなかっただろう。なにしろ昨年末までずっと、IT業界にいた身である。
ただ大学時代に国際政治を勉強していたこともあって、いずれは国際協力分野で仕事をしたいと思っていた。そこで昨年秋、JICAの社会人採用試験を受け、合格。今年1月に入構し、最初に配属されたのが国際緊急援助隊事務局だった。
JICAで一番小さなこの部署は、職員・出向・派遣含め全部で16人。海外で大災害が発生すると、昼夜、休・祝日問わず呼び出され、それからしばらくは平日・週末関係なく夜遅くまで仕事に追われるという特殊な部署である。体力勝負?のためか女性職員の配属は珍しいらしく、「1987年の事務局創設以来、まだ3人目」とのことだった。
勤務を開始して以来、主に物資供与を担当し、今年1月に発生したボリビアでの洪水や、3月のフィリピン・レイテ島での地滑り災害、4月のイラン地震に際してテントや毛布などの緊急援助物資の手配を担当してきた。しかし5月27日、朝5時54分に発生したジャワ島中部地震は、私が初めて体験する「チームを派遣する災害」となった。
JDR医療チーム
今回派遣されたJDR医療チームは、4つある国際緊急援助隊のチームの一つである。他には救助(レスキュー)、専門家、自衛隊チームがあるが、医療チームの歴史が一番長く、派遣実績も44回(今回の派遣を含む)と最も多い。もともとは1970年代後半、インドネシア難民が隣国に流出した際、日本政府が始めて医療チームを派遣したことがJDR医療チーム発足のきっかけだった。ただし通称PKO法が1992年に施行されて以来、紛争に起因する災害(難民を含む)への対応は自衛隊が行うことになり、以来、JDRは主に大規模な自然災害に対して派遣されている。
医療チームは、通常21名から構成され(今回は最終的に25名)、団長を筆頭に副団長、医師、薬剤師、看護師、医療調整員、そして業務調整員から成る。医療関係者は全員ボランティアだ。現在JDR医療チームに登録しているボランティアは760名(2006年7月3日現在)。大災害が発生し医療チームの派遣が決定すると、この登録者にFAXやメールで一斉に案内が流れ、参加者を募る。そして、参加意思を表明した登録者の中から経験者・未経験者をバランスよく混ぜる形で選抜し、チームを結成している。活動期間は2週間だ。
こう書くと、「自分は医療関係者じゃないから参加できないな」と思われそうだが、医療調整員の中には医療関係者以外の人もいる。医療知識があれば有利ではあるが、受付対応をする人も必要なため、被災国の言語や文化に通じていれば大きな利点だ。今回のミッションに参加した医療調整員の中にも、青年海外協力隊でインドネシアに派遣された経験がある人や、仕事の関係でインドネシア在住17年という人もおり、患者と直接コミュニケーションできる貴重な存在だった。
ロジスティックスが成否を分ける
今回私が派遣されたのは業務調整員というポストである。今回は4名派遣された。現地で活動する際に、医療活動以外のこと全てを取り仕切るのが業務調整の仕事である。診療サイトの選定からテントの設営、移動のアレンジ、必要物資の現地調達、セキュリティの確保、現地政府や国際機関・NGOとのコーディネーション、本部への連絡、広報活動・・・と業務内容を挙げればきりがない。
医療チームの活動期間は原則2週間と決まっているが、その間、医療チームのメンバーがスムーズに活動できるような「場」を整えることが私たちの役割である。こうしたロジスティックスは活動の成否に関わるほど重要であると緊急援助の世界で言われている。
たとえば、適切な診療サイトが確保できるか否かで、その後の診療者数も、隊員のセキュリティも、日本・現地メディアへの露出も大きく左右されてしまう。こうした重要なロジをまわすために、業務調整員にはJDR事務局から経験が豊富な人が必ず一人は派遣されている。今回はこの道6年の大友さん。初めてのミッション参加だった私にとって頼りになる存在であると同時に、色々なことを学ばせてもらった。
ジョグジャカルタ特別州 バントゥール市へ
一団を乗せた飛行機は一路ジャカルタへ。そこで一泊し、翌日、国内線で被災地ジョグジャカルタ州に向かう。ジョグジャカルタ空港は被災して一時クローズしていたが、運よく私たちが着いた日に復旧し、降り立つことができた。そこからすぐに、最大の被災地であり先遣隊が診療サイトを確保したバントゥール市にバスで向かう。
「ほら、あの建物、見て」
バスで移動中も、隊員は街の風景に釘付けだ。一階部分が潰れた建物や、崩れて歩道に散らばったレンガ塀を複雑な思いで見つめる。しかし、全ての建物が被災しているわけではない。逆に無傷で残っている建物の方が多い印象だ。空いている店も多く、道路に車も多い。日本を経つ時点で、被災者数千人以上(6月8日現在のインドネシア社会省発表では5,716人)と聞き、阪神淡路大震災のような状況を予想していた私は、「被災者はどこ?」というのが正直な感想で、他の隊員も同じ感想を持ったようだった。
1時間ほどしてバントゥール市内の目抜き通りに到着。そこには1日早く着いた先遣隊が立てた簡易テントが数戸立ち上がっており、既に診療を開始していた。テントの前には既に診療を待つ患者の列が出来ていた。
ムハマディア病院の光景
到着後すぐに、診療サイトのすぐ側にあるムハマディア病院を見学しに行った。バントゥール市最大というだけあって、3、4階まである比較的大きな建物だったが、被災して壁のあちこちに亀裂が入り、建物脇の塀は崩れ落ちて、駐車してあった救急車が傾いていた。
案内されて中に入ると、院内は患者で溢れかえっていた。室内に入りきれなかった患者が廊下に溢れ、毛布の上に寝転がっている。中には点滴をつけたまま寝転がっている患者もいる。付き添ってきたのだろう、家族らしい人も一緒に座り込み、見守っていた。建物の中を抜けると、そこには簡易テントがあり、廊下からも溢れ出た患者がその中で横たわっており、痛々しい。
初めて、被災地に来たという現実感が沸いてきた。
「市内の被災状況を見て『どこに被災者がいるんだろう?』と思っていただけれど、この病院に来て被害の大きさを実感した」と、前述の大友さん。私も同感だった。私たちがまだ足を踏み入れていない奥地に、多くの被災者がいるに違いない。
診療サイトを選定する際、州政府からこの病院の近くで活動してほしいという要望があったのだが、この病院とはその後2週間にわたって協力関係を保ち続けた。たとえば、私たちJDR医療チームは携行機材が限られており、応急処置が主となるため、手術を必要とするような重度の患者には対応することができない。そのような患者が診療サイトに来たときは、ムハマディア病院は後方支援病院として機能し、患者を受け入れてくれた。
治安と生活環境に恵まれて
私たち本隊が到着したその日のうちに、十字型の白い大型テントを全員で立ち上げ、医薬品や医療器具などを運び込んだ。翌日から本格的に診療開始。診療時間は午前8時半~12時、1時間のお昼休みを挟んで午後は13時~17時とした。
この診療時間はどの医療チームの派遣時も決まっているわけではなく、日照時間や活動地域の治安などを考慮して決められる。早く日が沈む場合は安全対策上、早めに活動を切り上げ、暗くならないうちに宿泊場所まで戻る必要があるし、活動地域の治安が悪い場合、テントの中の医療器具が盗まれる可能性があるので、毎日片付けて宿泊場所まで持って帰らなければならず、その撤収作業にかかる時間も考慮しなければいけない。しかし今回の活動地域、ジョグジャカルタ州は驚くほど治安が良く、比較的長く診療時間を持つことができた。
私たちが宿泊したのはジョグジャカルタ市内のホテル・ガルーダ。そこから約30~45分かけて診療サイトがあるバントゥール市にバスで行き、夕方には同じ道を戻るという毎日が始まった。成田出発時はテントでの野営も覚悟していたので、ちょっとホッとした。昨年10月のパキスタン地震の際に派遣された医療チームは、周囲に宿泊施設がなく完全な野営で、昼夜の激しい寒暖の中体調を崩した隊員が多かったと聞いていたからだ。
治安と、生活環境。この二つが良好だったおかげで、今回のミッションは非常に順調な滑り出しを見せた。もっとも先遣隊は、「最初3日間の合計睡眠時間が8時間で、死ぬかと思った」というくらいハードなスケジュールだったようだし、診療テントの中も連日32度を超え、脱水症状を起こしかけた隊員もいた。自分も活動開始数日後、脱水症状の前触れかボーッとなり、「これはやばいかな」と思ったことがあった。日本とは異なる気候風土の中での緊急援助活動には、体力と、自分自身のコントロールが不可欠だと痛感した。
JDR医療チーム始動
私たちの十字テントは、大型でユニークな形をしているだけでなく、設置場所が市内中心部であったこともあり非常に目立ち、「日本人医師がはるばるやって来た」というもの珍しさも手伝って、設営した翌日から多くの患者が詰めかけた。「日本の医療チームは優れた診療をやってくれるらしい」という口コミも手伝って、その数は増え続け、平均して約120名の患者が連日サイトを訪れた。
来たのは患者だけではない。日本、インドネシア両国のマスコミもテレビ、新聞、雑誌問わず押し寄せ、活動を取材してくれた。今回は本当に取材が多く、ホテルに帰ってNHKの衛星放送を見ていると、医療チームの活動が紹介され、上司をはじめ見知った医師や看護師が映像に出てくる、ということがよくあった。
また今回は医療チーム始まって以来初のNHK衛星中継があり、隊員の医師が診療サイト前で日本のニュースキャスターの質問に答えるという機会もあった。日本から遠く離れたこの土地で、多くのニュースが作られていくのを横で見ながら、現実感があるような、ないような不思議な気分を味わった。
なんにしても、マスコミが医療チームの活動を総じて好意的に取り上げてくれたおかげで、医療チームのサイトは毎日訪問客で一杯だった。報道を見たり聞いたりして来た患者がいたのはもちろん、インドネシア政府の関係者や、他国の援助関係者も沢山視察に訪れた。また、活躍ぶりを聞きつけたジャカルタの日本企業や日本人団体から、「日本人として誇りに思う。頑張ってください」と差し入れや支援の申し出があったことも嬉しかった。
インドネシアは世界の中で一番親日家が多い国だそうで、「日本は好きですか」というアンケートに「好きです」と答える人の割合が世界一高い(85%)のだそうだが、今回の派遣はその友好関係を更に深める一助になったと思う。
初の本格的な巡回診療
今回のミッションの特徴は色々あるが、その一つは初めて本格的に巡回診療を行ったことだ。バントゥール市を拠点に、車で30分~1時間位行ったところにある周辺の村に医師と看護師がペアで巡回し、処置を行った。重症の患者がいた場合は、本人の意思を確認した上で近くの病院に搬送した。こうした時は、緊急時の車両を手配してくれるIOM(国際移住機関)などの国際機関との連携が役立った。
私も巡回診療に同行し、いくつかの村を訪れたが、そのほとんどの村で90%の建物が程度の差はあれ被害を受け、死者が出ていた。
「この村は、村長さんが地震で亡くなったために、緊急援助物資の配分が受けられない状態になっているみたいだ。村長の個人的な力が大きいこの地域じゃ、村長の代理では影響力がないんだよ・・・」
ある村で、一緒に同行していたJICAインドネシア事務所の人が、村人の話を訳して教えてくれた。巡回には地元の警察が同行していたので、この村の状況が伝わり、事態は改善しそうだった。
巡回診療で診た患者のほとんどは、近くの病院で応急処置を受けていたものの、病院に大勢の患者が詰めかけたために再診してもらえない状況だった。それでも私が同行した富岡譲二医師(副団長。医療法人財団池友会 福岡和白病院所属)は、「意外と応急処置がしっかりなされている」と感心していた。「医療器具がほとんどない中で、ここまで応急手当ができる医師は逆に日本に少ないだろう」。
医師と看護師が阿吽の呼吸で患者の傷を処置してゆく様子を、村人が囲んで興味深そうに見つめる。特に子どもたちは興味深深だ。地震で怖い思いをしたに違いないが、その瞳には恐怖の影よりも、純粋な光が残っていたのが意外であり、救いでもあった。
今回チーフナースとして参加した石井美恵子看護師(北里大学大学院 看護学研究科所属)は、「被災地にすぐに駆けつけることで、被災者に『あなたたちは見捨てられていない』というメッセージを送ることが大切」と言われていた。そうすることで被災者が精神的な傷から立ち直ることができると。
診療サイトでの活動はもとより、奥地まで分け入り巡回診療を行った日本人医師と看護師の姿は、きっとそうしたメッセージを伝えることができたに違いない。
現地参加ボランティアの活躍
二つ目の特徴は、現地参加ボランティアの活躍だ。
ジョグジャカルタは日本で言うと京都のような地域で、文化のレベルが高く、人々も誇り高い。歴史も古く、ボロブドゥール遺跡のように世界遺産に登録されている遺跡もある。歴代の政治家も多く輩出しており、第2代大統領、スハルト氏や5代大統領のメガワティ氏も同地の出身だ。
教育の水準もインドネシアの中では高い。ジョグジャカルタにあるガジャマダ大学は、さしずめ京都大学というところだろうか。同大学は1949年に創立されたインドネシアで最も古い国立大学で、18学部を有する総合大学。学生数約4万人、教員数約2千人のマンモス大学だ。
その大学で学ぶ日本人留学生数人が、診療活動を開始して一週間を過ぎたある日、サイトに訪れた。「医療の知識はないけれど、インドネシア語はできます。自分たちに何かできることをさせてください」。1年間の交換留学で来ている学生3人と、1年間企業派遣で留学している方1人だった。
学生たちの申し出を有難く受け入れ、翌日から本格的に活動を開始してもらう。インドネシア語が出来るので、主に受付前での問診を行ってもらった。たまたま初日は金曜日。イスラム教の信者にとって大切なお祈りの日で、インドネシア人通訳約6人は全員、お祈りのためお昼に抜けていた。その間日本人学生たちが通訳として活躍。診療サイトでは、問題なく活動を続けることができた。もちろんこの時だけでなく、学生ボランティアは最後まで熱心に活動を続けてくれた。その姿は医療チームのメンバーにも、患者にも良い影響を与えてくれた。
「地震が起きた直後は、街の人たちがみな『津波が来る!』っていうデマに踊らされて、パニックになり、高いところに逃げようと必死になったんです。自分も、『ジョグジャカルタは内陸だから、こんなところに津波がくるはずない』と最初は思ったんですが、周りの雰囲気に呑まれて、一緒になって逃げていました。気づいたら一人になっていて・・・」
学生の一人、照屋貴子さんは被災直後の経験を語ってくれた。
「逃げている時は本当に怖かったんです。恐怖が去った後も、人々がパニックを起こしたことが嫌になってしまって、一時は日本に一時帰国しようかどうか本当に迷いました。でも、インドネシアの人々に本当にお世話になってきたから、その恩返しをしなきゃって思い直したんです。そんな時、日本の医療チームがきていることを知って、日本人の自分しかできないことがそこであるんじゃないかって思って。それで来ました」
医療チームのメンバーの中にも、青年海外協力隊員としてインドネシアに2年間赴任したことがある人が数名いた。その中にも「今の自分があるのはインドネシアの人たちのおかげ。その恩返しをしたいと思って来た」と話してくれた人がいた。インドネシアに恩返しがしたい、という気持ちは今回のボランティアに共通していたかもしれない。
日本人留学生が活動してまもなく、インドネシア人医師もボランティアに加わった。ラマ先生である。先生はインドネシア人だが、日本の大学の医学部を奨学金を受けて卒業。現在は茨城県の病院で勤務されているという大変優秀な方だ。もちろん日本語も堪能である。
母国での大地震に心を痛めていたところ、勤務先の病院から「しばらく帰国して、被災地で支援活動をしてきたらどうか」と勧められ、在インドネシア大使館にレターまで書いてくれたそうだ。帰国後、最初はインドネシアの病院で活動していたが、日本で医療を学び仕事もしていた先生は、JDR医療チームのことを知り、より自分の力を活かせるのではないかと考え、私たちを訪ねてくれたのだった。インドネシア語、日本語両方に通じ、医学の知識もあるボランティアなどそういない。申し出を有難く受けた。
復旧・復興支援調査チーム
三つ目の特徴は、復興支援調査チームの2名が早い段階から合流したことだ。このチームのミッションは、緊急支援につづく復旧・復興支援のニーズをいち早く調査し、早急かつスムーズな復興につなげることである。緊急時から復旧・復興期への切れ目のない援助については、JICAでも重要性が認識されていたが、今回具体的な形で早期に実現することができた。
調査チームの2名はJICAの職員。活動期間中、私たちが診療サイトで活動している間、政府の関係者や被災地を精力的に周って情報収集を行っていた。その一週間後、6月5日には新たに調査団12名が派遣。日本政府としてはジョグジャカルタ市周辺で実施中、または実施予定の初中等教育、水道、保健医療の3分野のJICAプロジェクトを活用した支援を行う方針だったが、その具体的な内容について早い段階でインドネシア政府に表明することができた。ここまで早く、具体的に支援表明をしたのは先進国の中でも日本以外になく、先方政府から非常に感謝されたという。
こうしたスムーズな支援表明につながった背景には、日本とインドネシアの緊密な関係はもとより、それを裏付ける人材の存在があったと思う。調査チームの中にはインドネシア語に非常に堪能な人もおり、現地の関係者とのコミュニケーションに問題がないどころか、情報収集や交渉にあたって親身になってもらえたのではないかと思う。また、今回のミッションを通じて多くのJICAインドネシア事務所スタッフにお世話になったが、皆押しなべてインドネシア語が流暢で、現地の政治経済や文化に精通していた。こうした人材があってこそ、効果的な支援が実現するのだと心から思った。
被災地と言ってもさまざま
JDR医療チームでは、時に二次隊を派遣することもある。現地に強い医療ニーズがあり、現地政府の要請があることが条件である。しかし今回は早い段階からその可能性を見送っていた。理由は、州政府とムハマディア病院を始めとする現地の医療施設の復旧の早さである。
もともとジョグジャカルタ州は自治能力が非常に高い州だ。実はここ、単なる州ではなく「特別州」である。スルタンが州知事として統治するインドネシアで唯一の州だからだ。スルタンは現地の民の尊敬を集めており、スルタンもそれに応えているという。また前述したように教育のレベルが高く、学生も多いので、被災後は学生たちがいち早く結束して支援活動を行った。
また、この州は良くも悪くも自然災害が多い土地。医療チームが活動している間に噴火したムラピ火山があり、南部では鳥インフルエンザの感染例が報告されている。州政府はこうした災害に備えて、日ごろから対応を検討していたらしい。もちろん災害対策において万全ということはないのだろうが、比較的緊急時を早く脱し、復旧・復興フェーズに移行できた背景には、こうした要因があったようだ。
前述のムハマディア病院も、早い段階で機能を回復し、活動期間の終わりごろには廊下に寝ていた患者は姿を消していた。
自分たちの土地は、自分たちで復興する。そうした強い意志が感じられた。途上国の災害支援というと、「被災者を助ける」ことばかりに視点がいってしまい、現地の人たちに自力で立ち上がる力があることを忘れがちだが、誇り高いジョグジャカルタの人たちは、「復興支援は、地元の人々のオーナーシップが基本で、海外の援助はそれを支援するのが鍵」ということを教えてくれた。
患者からの「ありがとう」
診療を開始してから、あっという間に10日間が経った。
診療最終日となったその日は多くの患者が詰め掛けた。その日だけで、初診・再診含めて180名に上った。
中には2、3時間かけて遠路からやってきて、「本当にありがとう」とお礼を言いに来てくれた元患者さんがいた。またある患者さんは、ポケットからボロボロの紙を取り出し、看護師に渡すとお礼の言葉を残して帰っていった。「本来であれば家まで招待し、お礼を述べたいが残念ながら被災しそうした事もできない、ただ感謝の気持ちでいっぱいです」その手紙には、そう書き記してあった。
みな、胸が熱くなった。
ムハマディア病院への供与式
診療活動を終えた翌日の6月8日は、皆で十字テントを畳んで、診療サイトをクローズした。皆が汗を流している間、私はちょっと離れたところに立てたテントの中でパソコンとにらめっこ。なんだか感じが悪いが、その日にとり行う供与式で現地政府に渡す英文の活動報告書を作成していた。
供与式では、十字テントを始めとするテントや、医療器具をムハマディア病院に寄贈することになっていた。これはJDRの慣習で、活動終了後はほとんどの機材を現地政府に供与して帰ってくる。被災地でこれらの機材を診療活動に役立ててもらう、というのが主な目的だが、全て持ち帰ると高額の輸送費が発生するため、寄贈した方が費用対効果があるという現実的な事情もある。
供与式は夕方から、インドネシア保健省の大臣の参加のもと行われた。医療チームからは、富岡副団長がこれまでの活動の簡単な報告をし、インドネシアからは大臣および政府担当者が御礼のスピーチ。続いて資機材供与の覚書に大臣と副団長が署名した。式は十字テントを立てていた場所に簡易テントを2つ立てただけの簡素な場所で行われたが、それまで私たちの活動を応援してくれた地元の人に見守られ、最後を飾るに相応しいセレモニーになった。インドネシアの夕陽が、誇らしげな、でもどこか寂しげな隊員の横顔を照らしていた。
ミッションを終えて
翌日私たちはジャカルタ経由で日本に帰国した。帰国した医療チームを待っていたのは空港での解団式。NHKのカメラが回る中、結団式に参加された方とほぼ同じ方々から、労いの言葉をいただいた。
「皆さんの活動は毎日のように報道され、日本でも皆さんの活躍を手に取るように知ることができました。初の本格的な巡回診療や、復興支援調査チームとの連携による切れ目のない支援、そして学生ボランティアやラマ先生の参加など、多くの新しい試みがあったミッションだったと思います。本当にお疲れ様でした」
スピーチに耳を傾けながら、2週間前の結団式で心細い思いをしていた自分のことを思い出した。一緒に出発した医療チーム本隊には一人も知り合いがおらず、医療関係者のボランティアの方々と、どう接すれば良いのか心もとなかった。しかし2週間の濃縮された日々を共に過ごした今、この部屋にいるメンバーと不思議な連帯感が生まれ、それが安心感と自信につながっていた。
また今回のミッションが成功裏に終わったのは、メンバーの活躍はもとより、国際緊急援助隊事務局本部やJICAインドネシア事務所を始めとする関係機関の手厚いサポートがあったこそである。本当にびっくりするくらい、色々な局面で支援してもらった。これがJICAの底力なのかもしれない。
転職して初めての海外出張となった今回の派遣だったが、JICAの組織的なネットワークと人材の豊富さを実感する貴重な体験になった。自分が次にサポート側に回ることになった場合、同じように精一杯サポートしたい。それがきっと被災国への効果的な支援につながるだろうから。
今回のミッションを通じて得た様々な経験や出会いを胸に、今日も、世界のどこかで起きるかもしれない災害に備える日々を送っている。
注)本稿は個人的な見解に基づくもので、JICAの意見を代表するものではありません。
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